このページは、明主様(岡田茂吉)の御教えの中から、私が普遍的な真理と思われる物を抜粋したものです。
人を幸福にすれば自分が幸福になる
出来るだけ善事を行うのである。始終間さえあれば、何か善い事をしようと心掛けるのである。例えば人を喜ばせよう、世の中の為なら妻は夫を気持ちよく働かせるようにし、安心させ喜ばせるようにする。親は子を愛するのは当然だが叡智を働かせて子供の将来を思い、封建的でなく、子供は親に快く信服し、愉快に勉強させるようにする。その他日常すべての場合、相手に希望を持たせるようにし、上役に対しても下役に対しても、あいと親切を旨とし、出来る限り誠をつくすのである。政治家は自分のことを棚あげにして国民の幸福を第一とし、総て模範を示すようにする。勿論一般人も一生懸命善事を行う事に努め、智慧を揮い努力するのである。かように善事を多くした人程幸福者になることは請け合いである。
正直は人生の宝
私というものは、若い頃から、自分で言ってはおかしいが実に正直である。どうしても嘘がつけない。若い頃「君のような正直者は成功は覚束ないから、心を入れ替え出来るだけ巧く嘘をつかなければ、世渡りも成功も難しい」と、よく言われたものである。私も成程と思って、一時は一生懸命嘘をついてみるが、どうもいけない。苦しくて堪らない。人生が暗くなり、不愉快な日ばかり送るのである。そんなわけだから、勿論結果のいい筈がない。その頃は商人であったから、尚更駆引や嘘が良いはずであるが、どうも良くないので、遂に意を決して私本来の性格である正直主義で通してみる事に決意した。処が面白い事には、それから予想外に結果が良く、第一、業界の信用を増し、トントン拍子に成功し、一時は相当の資産を� ��ったのである。
利己主義は滅びのもと
幸運者となるにはどうすればいいかというと、分かり切った話であるが、善の種を蒔けばいいので、昔から善因善果、悪因悪果の言葉通りであるから、悪の種とは人を苦しめ、損害を与え、自分さえよければ人はどうでもいいというような利己的観念で、善の種とは他人を喜ばせ、他人に利益を与える利他愛観念である。としたら甚だ簡単のようだが、それが中々難しいので、人生は厄介なものである。ではどうすればいいかというと、右の道理を信じ守り得られる心を作る事で、そうなれば嫌でも実行するからである。
感謝は感謝を生み不平は不平を生む
感謝が感謝を生み、不平が不平を呼ぶとは将(まさ)に真理だ。
なんとなれば感謝の心は神に通じ、不平の心は悪魔に通ずるからだ。この理によって常に感謝をしている人は自然幸福者となり、常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ。
starskysトップダン
日本人たれ世界人たれ
これからの人間は世界人にならなければ駄目だ。元来日本人とか支那人とか言って、差別をつけるのが第一間違っている。あの頃の日本人がそれで日清、日露の二回の戦役に勝ち急に一等国の仲間入りをしたので逆上せ上り、日本は神国なりなどと、何か特別の国のように思ったり、思わせたりして、遂にあのような戦争まで引起したのである。そんな訳だから、他国民を犬猫のように侮蔑しその国の人間を殺すなど何とも思わず、思いのままに他国を荒し廻ったのである。
そのように自分の国さえよけりゃ、人の国などどうなってもいいというような思想がある限り、到底世界の平和は望めないのである。
天国は美の世界
神様の御目標は真善美完き理想世界を御造りになるのである事は、本教信者はよく知っている処である。としたら、その反対である悪魔の目標は、言わずとしれた偽・悪・醜である。偽は勿論文字通りであり、悪も説明の要はないが、ここに言いたいのは醜の一字である。人間の衣食住は、分相応を越(こ)えない限り、出来るだけ美しくすべきで、これが神様の御意志に叶うのである。何よりも美は自分一人のみの満足ではなく、他人の眼にも快感を与えるから、一種の善行ともいえるのである。第一社会が高度の文明化する程、凡ゆる物は美しくなるのが本当である。考えてもみるがいい、蛮人生活には殆ど美がないのではないか、これにみても文化の進歩とは、一面美の進歩といってもよかろう。又、一家の部屋内もそうで、天� �の蜘蛛の巣などにも常に注意を払い、座敷は塵一つないようよく掃き清め、目障りな物は早く片付けるとともに、調度器物なども行儀よくキチンとして置くようにすれば、第一家族の者は勿論、人が来ても気持ちよく、自然尊敬の念が沸くもので、その家の主人の値打もあがるのである。
一切の苦しみは浄化作用
一切の苦しみは浄化作用である。浄化作用といえば病気だけのように思うかも知れないが、決してそうではない。総ての悩み苦しみの因は悉く(ことごとく)浄化作用である。例えば人に瞞され(だまされ)損をする、火事で焼ける、怪我や泥棒、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼(か)も浄化作用である。
人事を尽(つ)くして神様にお任せ
何となりのサインフェルドは、ホームベースと呼ぶん。
私は常に、どうしても判断がつかぬ難問題に逢着した時、神様にお任せするという事にして、後は時を待つのである。処が想ったよりもよい結果を得らるる事は幾多の体験によって明らかである。殆んど心配したような結果になった事は一度もないといってもよい。又種々の希望を描くが、その希望よりも必ず以上の結果になるから面白い。こういう事もある。何か悪い事があるとそれを一時は心配するが、きっとよい事の前提に違いないと思い、神様に御任せしていると、必ずよい事の為の悪い事であった事が分り、心配したのが馬鹿らしくなる事さえ往々あるので、実に感謝に堪えないことがある。要するに私は奇跡の生活習慣と思っている。私が言う信仰の醍醐味とは即ちこの様な次第である。
使命が大きければ苦労も大きい
昔名刀を作るには火で焼を入れ、槌で叩いては水に突込み、これを繰返す。所謂(いわゆる)鍛えるのである。この理は人生にも当嵌まる(あてはまる)が、実に面白いと思うのである。本教が開教後、日を経るに従って、毀誉褒貶(きよほうへん)、叩かれたり煮え湯を浴びせられたりヒャツというような冷水に突込まれたりする事が度々ある。これは何故かと人から聞かれる。私は右に対し名刀の譬え(たとえ)を言うので、相手はよく了解するのである。この事は昔から人並外れたような仕事をする者は、例外なく名刀的苦難を嘗めるものである。これを宗教上からいうと、神の使命の大きい人程大きい苦労をさせるとの事であるから、寧ろ喜ぶべきである。
人に知られずいいことを
陰徳ってのは人に知られないでいいことをすることですよ。なるたけ人に知られないでいいことをするんですね。そうするとね、神様のほうで何層倍にも返してくださいますよ。だから陰徳を積むってのはたいへんなことなんです。いまの人はこのことがわからないから陽徳ばかりですね。
人の幸せを念ずれば、ひいては自分も幸せに
神様はひとりでも多く救うのが念願であるから、人を救う場合"どうかこの人が幸せになるように"と念ずるようにするのです。それがひいては、自分を幸せにすることになります。ですから、自分が御守護を与えていただくには、世の中の一人でも多くの人を救うことだけを考えて、自分のことを考えないのです。要するに、念じなくても全人類を救って幸福な世界を造ることだけをつねに考えなければなりません。
穢れ、苦しんでいる人ほど救わなければならない
どのように私はビニールレコードの値を見つけることができます。
ほんとうに清い人は必要ないので、まずほうっておいてもよいですが、悪い人や穢れた人を救うのがほんとうの救いなのです。そういう考えでゆくと、いまの世の中は非常に穢れているから、引っ込んでいては全然駄目です。穢れた苦しんでいる人が多いから助けなければならないのです。
昔、ある人が"自分は天国に救われたい、どうしたら救われるか"というから、私は笑ったのです。"自分はそういうことは思わない。自分は多くの人を天国に救ってやりたい、それで地獄に行くのなら構わない"と言ったのです。穢れた人や苦しんでいる人ほど助けてあげなければならないのです。
神様のお役に立つ人間に
神様としては、神様の役に立つ者はどうしても助けます。それから邪魔したり、役に立たない人間は、その人間がわかるまでは手を引かれて、時を待たれるのです。
神様というのは、大変な御力で助けようと思えば何でもないのです。ただ助かる条件に持っていけばよいのです。ですから、人間の方でその条件に持って行けばよいのです。私は以前、まだ信仰の浅い時分に、神様の方ではオレを殺したら大変なマイナスだ。だから神様の方で助けるのが当たり前だ、というように思ったことがあります。これは どっちかというと私の自信です。それで神様は、それに対して気持を悪くはなさらないのです。
罪穢は人を助ける事により消滅する
人間の罪穢れを滅する方法は、人を助け徳を積むことです。そういういい事をしないで滅するには苦しむよりありません。しかし、この苦しむ方は、骨が折れる割合に効果が少ないんです。ところが、いい事をする方は、人に喜ばれ、尊敬されて、罪が消えるのも、とても早いんです。これが信仰です。
だから 教修を受けて入信するということは、穢れを消滅する方法をおぼえることと、これを行なう事を知るんです。そこでただ教修を受けただけじゃ、まあ受けないよりよっぽどいいけれども、本当に罪穢れをとるには、それだけでは十分ではないんです。
親切はどこまでも公平に
親切は、どこまでも親切にすべきです。実際問題としては、どこまでも親切にはできないが、事情の許すかぎり、親切にすべきですね。それからまた、人に対しては、公平でなければならない。
あの人は金があるから親切にしてやろう、あの人は土百姓だからあまり親切にしてやらない、というのではいけません。
以前奉仕していた女の人は「他の人は、自分の話を聞いてくれないが、明主様だけは、私の言うことを聞いてくれる。これが一番ありがたい」と言ってたことがありました。
真の使命にめざめ、正しい人生を
人間が現世に生まれるということは、神の命によるのである。生命の命は命令の命と同一であるのも、その意味であろう。(中略)それでは、神の意図とは何かといえば、この地上をして理想世界、言い変えれば、地上天国を建設する事である。
そうして神は、一人一人にそれぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き変わり死に変わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである。
人間の自由とは
神は人間に対し無限の自由を与えている。これが真理である。人間以外の動植物には限られる自由しか与えられていない。ここに人間の尊さがある。然らば人間の自由とは何であるかと言うと、人間向上すれば神となり、堕落すれば獣となるという両極端のその中間の位置に存在しているからである。この理を推進する時、こういうことになる。それは人間の行り方次第で、この世はいとも楽しい楽苑(らくえん)ともなり、その反対であれば、いとも悲惨な地獄ともなる。
よろこびは多くの人に
私の性格が、地上天国や美術館を作る援けともなったのであるから、こういう正格を神が与えたものであろう。例えば、結構な美術品や絶佳な風景を見ると、自分一人楽しむのは張合もないし、気も咎めるので、ひとりでも多くの人に見せ、楽しませたいと思う心が湧いてくる。という具合で、私は、自分だけでなく、人に楽しませ、喜ぶのを、自分も楽しみ、喜ぶということが一番満足なのである。
信用を受けるには
何よりも嘘を言わない事と、自分の利益を後にして人の利益を先にする事である。いわばあの人のお陰で助かった、あの人に付き合っていれば損はない、実に親切な人だ、あの人と合うといつも気持がよい―というようであれば、何人と雖も(いえども)愛好し尊敬する事は請合いである。(中略)今一つ言いたい事は、どんなによくしても一時的ではいけない。丁度米の飯と同じようで一寸は味がないようだが、長く噛みしめれば噛みしめる程味が出てくる。人間は米の飯とは一日も離れる事は出来ないと同じように、私は常にいうのであるが、人間は米の飯人間にならなければいけない―と。
善を楽しもう
私は善を楽しむ事を教えたいのである。即ち相当社会に頭角を顕わすようになっても柳暗花明(りょうあんかめい)の巷に出入りする事は出来るだけ避け、余財あれば社会公共の為に費し困窮者を助け善徳を施し、神仏に帰依し、時々は家族を引き連れ映画、演劇、旅行等を娯しむのである。こういうような行り方であれば一家は団欒(だんらん)し、妻は夫を尊敬し感謝するようになり、子女の如き先ず不良になる心配はないであろう。従って経済不安もなく、不摂生もなく、健康にも恵まれ、長寿も保ち得られる訳で、日々を楽しみ心は常に洋々たるものがある。
一生は一日の積み重ね
私は信仰の究極の目的は、完全なる人間を作る事であるとも思う。勿論世の中に完全という事は望み得べくもないが、少なくとも完全に一歩々々近づかんとする修養―これが正しい信仰的態度である。この意味に於て(おいて)、私と雖も(いえども)去年より今年、今月より来月というように、飽迄進歩向上、心の弛まないよう努めている。といってもただ物質的の事業や職業や地位が向上するというそれだけでは、根底のない浮遊的のものである。要するに人格の向上である。この心掛けを持って1歩ずづ気長に、自己を積みあげてゆくのである。無論焦ってはならない。ほんの僅かずつでもいい。長い歳月によれば必ず立派な人間になる。否そのように実行せんとする心掛け、それだけでもう既に立派な人間になってい る。
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